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曹操は冷酷な簒奪者だったのか?諸葛亮は本当に忠義と至誠の人だったのか?三国志像を根本的に変えさせる『三国志逍遥』 中村愿 著 [歴史]

本書の大きなテーマとして歴史の捉え直しがあり、特に曹操と諸葛亮の実像に迫る部分が非常に興味深い。

著者によれば、曹操とは献帝を迫害し漢朝を滅亡に向かわせ、それに心を痛める配下の荀彧に自殺を命じるような冷酷な男ではない。それは信頼の置けない資料によって作られた虚像である。著者は後世の裴松之による注釈や、後漢書などのおかしな部分を排し、同時代を生きた陳寿の記述を中心にして、曹操像を構築し直している。曹操が詩文に託した天下(世の中の人々)への誠実な思い、それを理解していた献帝との心の交流、その結果として成された禅譲(史上稀な平和裏に行われた禅譲であるという)などについて詳細に検討し、曹操の実像に迫っている。また、どのようにして歴史が歪められ、結果として曹操が悪漢とされていったのかというプロセスも細かく検討されており、興味深い。

著者は曹操を賞賛するだけではない。曹操は家臣の様々な告発を受け、その中でバランスが取れずに揺れ動いていく。その結果、強引に処刑・追放される清廉な家臣達がいたのだ。こういった悲劇の物語を、陳寿は史記における同様の悲劇を踏まえて記しており、司馬遷を継承しているのだ。

諸葛亮も大胆に捉えされている。彼の『出師の表』は「忠誠心と至誠の場があふれている」名文ではなく、実は己の勝手な理想を蜀の人々に押し付けるための巧妙な脅迫文であり、『後出師の表』は、史上稀に見る無責任な表明文として非難される。その理由を著者は説得力のある形で述べており、目から鱗が落ちる。読者は新たに諸葛亮像を作り直すことを迫られるであろう。

また、たびたび引用されている三国志の漢文は非常に現代的な日本語によって書き下されている。例えば次のような具合である。

太祖(そうそう)は少(おさなく)して機警(えいびん)、権数(はかりごと)に有(た)け、而(しか)も任侠(おとこぎ)があって放蕩(あそびにふけ)り、行業(これというしごと)に治(つかなか)った。故(ゆえ)に世人(せけんのひと)は、之(かれ)が奇(すぐれたじんぶつ)だとは未(おもわなか)った。

このように漢文がいきいきとした現代文として書き下されており、漢文を現代に新たな形として蘇らせる試みとして注目したい。

後漢書や裴松之の注釈などにとらわれない、真実の三国志に迫る試みとして非常に興味深い作品である。ここから議論が盛んになることを期待する。

目次

1章 中国史書の魅力
2章 人の世の巡り合わせ
3章 禅譲のふるさと
4章 歴史を歪めるのは誰か
5章 『魏書』―短篇小説の味わい
6章 『蜀書』―諸葛亮、是か非か
7章 『呉書』―“赤壁の戦い”の行方


三國志逍遙



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「原因を説明することは、理性による合理化・正当化ではない」。この言葉が意味するものは何か? [政治・経済思想]

要旨:Reason(理性)という言葉が持つ意味を、ナルニア国物語の著者であるC.S.ルイスの言葉"An explanation of cause is not a justification by reason"を通して考える。reasonは主体的な説明であり、淡々と「なぜか」を説明するものではない。Justify(自分のしたこと・言ったことを正当化すること/正しいと証明すること)することがreasonの本質であり、だからこそ合理主義は過激なものにもなり得るのだ。


原因を説明することと理性による正当化の違いとは

 上記の英文"An explanation of cause is not a justification by reason"は「ナルニア国物語」の作者、C.S.ルイスによるものである。私がインターネットでreasonについて調べている内にたまたま出くわした文だ。この文は有名なものらしく、Googleで検索をかけると2月17日現在1,050件ヒットする。

 このルイスによる言葉はreasonという言葉の意味を良く表していると思う。そのことを知る上で、次の質問と応答が参考になる。

WikiAnswers.com該当部分から引用開始)

Q:What does this quote mean An explanation of cause is not a justification by reason?

A:explaining why something happened does not justify the occurrence

example: my boss/teacher/someone makes me angry and I'm already in a bad mood so I kill them. this explains why, but does not make the act right or correct when using pure reasoning rather than emotion

(引用終了)

 以上のやりとりを私が訳すと次のようになる。

 質問:「原因を説明することは理性による合理化・正当化ではない」という引用文は何を意味するのですか?

 答え:なぜ物事が起きたのかについて説明することは、その起きた出来事を合理化・正当化することではないということです。

 例をあげます。私の上司あるいは先生が私を怒らせました。私はその時機嫌が悪かったので彼を殺してしまいました。このことは「なぜか」を説明するものです。ですが、感情を抑えて純粋に理性を使うことによって、自分の行いを正しいとか適切であったとするものではありません。

 以上が私による訳である。私はこのやりとりはreasonとjustifyという言葉の意味をよく表していると思う。

理性はつじつま合わせを行う

 私は、先のルイスの文は、reasonという言葉の意味をよく表していると思う。「理性による正当化」つまり”justification by reason”と「原因を説明すること」とは異なることなのだ。それは理性の仕事が主体的な説明であり、受身の姿勢で淡々と行うものではないことを示している。先の例で言えば、自分が上司を殺してしまったのは、ただ単に機嫌が悪かったからだったというだけで済ますものではないということだ。理性によって自分の行いを「正しかった」とか「適切であった」と言うためには、自分を正当化しなくてはならない。日頃から上司が自分に対してひどいことをしていたから、いじめていたから、さらには、上司が自分を殺そうとしていたから、といった具合の理由を示すことが理性の仕事であるということになる。このようなことが理性の仕事であると、先の回答者は言ってるのだ。

 実際に英英辞典でreasonの意味を調べてみればわかるが、reasonはしばしばjustifyすることであるとされている。そしてjustifyとは自分を正当化することであったり、自分の正しさを証明することでもある。だから、これがreasonの仕事であると私は考える。

reasonは二つの事柄をダイレクトに結びつける

 バスに乗り遅れて学校を遅刻したというケースでreasonについて考えてみよう。先生に問われる。どうして遅刻したのかと。あなたは答える。いつも乗っていくバスに乗り遅れたからです。この場合は「バスに乗り遅れたこと」が「遅刻した」ことのreason:理由となる。バスに乗り遅れさえしなければ、ちゃんと学校に定刻通りに着くことができたと言ってるわけだ。

 「バスに乗り遅れたから、遅刻したのです」とはっきりと明言しているのであり、これこそが直接の原因であると宣言しているである。だから、「自分はバスにちゃんと間に合うようにすることができたのだけど、それをしなかった、これが直接の原因であり、自分が悪かったのだ」あるいは「バスに乗り遅れたことが直接の原因だ。自分が悪いのではなくて、バスに乗りにいく途中で妨害が入ってしまって、どうしても間に合わなかったのだ」といった具合に「バスに乗れなかったことが、遅刻の直接の原因である」自分の行動を意味づけているわけだ。

 私がこのように考えるに至った理由は、政治経済学者の副島隆彦が理性の意味を「うろうろ歩き回らないで、二点間の最短距離をまっすぐに歩くこと」としていたのを知ったからだ。だから理由という言葉の持つ意味も、そういった直接性を有しているはずだと考えたのだった。

 これに関連して、私のアメリカ人ネイティブの女の子である友人・ダイナと次のようなことを議論をしことがある。

 私:「僕の先生はこう言った。reasonは2点間のつながりをダイレクトに説明するものだ、と。だから、もし君が遅れたことの説明が"今日はバスに乗り遅れた"ことであるなら、君はそれだけを言えばいい。もし君がこの説明に、さらに色々と追加するとしよう。"私はとてもグズなのです"とか"今日は朝食をとらなかったので疲れていました"といった具合に。こうなったら、もうreasonとは言えないと僕は思う」

 ダイナ:「ええ、そう思う。そのケースだと、それはexcuseになるんじゃないかな」

 私:「君が遅れたことは、数多くのcausesによって起きることだ。だから、そういったことはもうreasonとは言えない」

 ダイナ:「そうね。それと・・・さっきの"excuse"についてだけど。これって興味深い言葉じゃないかしら。この場合、悪いことの類よね(なぜなら、もちろん、グズな人間であることや、朝食をとらないことは避けることができるから)。でも、それはreasonとは全く言えない。どうしてかと言うと、さっきの"reason"は、結局のところ、バスに乗り遅れたということでしかないから。」

 このように「バスに乗り遅れたことが遅刻した理由だ」と直接性を明言したからには、この理由にさらに「僕はグズなんです」とか「今日は気分が悪くて」などと後付けで加えても、それは説得力を持たない。なぜなら、グズであろうと気分が悪かろうと、バスにちゃんと間に合うようになれば必ず遅刻しないで済んだわけだから。だからそういった理由を言うのならば最初から言わなくてはならない。「そもそもグズであるから、今日も遅刻したのだ」とか「今日は気分が悪くて、バスに時間通りに乗ることは無理だったのだ」という具合に自分を正当化しなくてはならない。こうすれば、遅刻したことと、それら理由が直接に・ダイレクトに結び合わせられることになり、意味が強くなる。

ルイスはreasonによる過激な正当化をたしなめたのか?

 したがってreasonとは淡々と原因を述べるものではなく、積極果敢に世界を理屈づけることなのだ。そもそも昔からヨーロッパで理性が称揚されてきたのは、彼らが世界を積極的に理屈づけ、神の意志を読み取ったり神の目から世界を見たかったからである。つまり、世界の論理や法則といった客観的な真理を見出すべく果敢にreasonを駆使してきたのである。だからこそ、フランス革命を実践したインテリ達はreasonを神として祭り上げたのだし、秘密結社イルミナティの創始者アダム・ヴァイスハウプトはreasonを唯一の宗教法典としたのである。そして、彼らは自分たちは客観的な真理をreasonによって見出したのだと信じたからこそ自信満々であったのであり、だからこそフランス革命においては反対派をどんどん殺すことができたし、イルミナティの目的は既存の民族・宗教・結婚制度・私有財産を一切無くしてしまうという過激過ぎるものだったのである。そして彼らは、自分のそういった行動と目的をreasonによってjustifyできていたはずである。

 このような性質を持つreasonの矛先が王制やカソリック教会といった既存の権力と権威に向けられたのは当然であり、だからこそ宗教の側は行き過ぎたrationalismすなわり合理主義・理性主義をたしなめる立場にあるのではないか。ルイスによる先の文がどのような文脈に置かれているのか私は知らないが、彼はキリスト教徒であったから、その立場からの行き過ぎたreasonへの批判なのかもしれない。神の深遠な意志が反映された世界を、reasonによって簡単に自己正当化:justificationしてはならない、といった具合に。



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Reason(理性・理由)とは何なのか?思考能力としての理性と、何かの行動や事実の裏にある理由とは、一体どういうつながりがあるのか? [政治・経済思想]



金儲けの精神をユダヤ思想に学ぶ

金儲けの精神をユダヤ思想に学ぶ

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 祥伝社
  • 発売日: 2005/01
  • メディア: 単行本



Reason:「うろうろ歩き回らないで、二点間の最短距離をまっすぐに歩くこと」

 私は、著名な政治経済学者の副島隆彦によるReasonの定義(↑)を読み、改めてReasonの本当の意味がわかったと思った。そして正しいかどうかを確かめるべく、アメリカ人ネイティブの女の子・ダイナとReasonの意味を色々と議論した。

 ダイナはまだ18歳だけど、これから大学で英語を専攻する聡明な女性である。彼女に英語の文法について質問すると、いつも彼女の視点からわかりやすく簡潔な説明を与えてくれる。だから私は、ダイナなら何か教えてくれるはずだと考えたのだ。

 議論の結果、副島隆彦によるReasonの定義が正しいと判断した私は、彼にメールを送り、自分のReasonに対する考えを読んでいただくことにした。その結果、「君の探求は素晴らしい。今度は、同語源であるratio ,rationalism ラチオ、ラシオナリズム を、研究してみてください。」というお返事をいただいた。

 私は副島隆彦を先生と呼んでいる。なぜなら、彼から多くのことを学び、その多くを正しいと感じ、説得力も感じているからだ。私は学者でも何でもないただの無職で病気持ちの男であるけれど、私が先生と仰いでいる氏から誉めていただき、光栄に思いました。

 以下に、私が副島先生に送ったメールの文面を転載する。ReasonとReasonableについての私とダイナの議論と、それを踏まえた私の追加の指摘がある。

英語ネイティブの女の子との議論でわかったこと

(転載開始。ただし太字のタイトル部分は後付けで記したものです。)


 もともとは、ぼやきにてアイン・ランドのreasonの考え方を吉田(Y2J)さんが紹介されている論文を拝読し、そこから改めてreasonの意味について学び直したことがきっかけです。私は先生の「金儲けの精神をユダヤ思想に学ぶ」を読んでいたのですが、なぜだか先生による理性の明確な定義が頭にしっかりと入っていなかったようです。

 吉田さんは次のように先生の定義を紹介しています。「うろうろ歩き回らないで、二点間の最短距離をまっすぐに歩くこと」。私はこれを読み、「ああ、そういうことだったのか!」と改めて納得しました。そして、日本語でもよく用いられている「理由」という言葉の意味がわかった気がしました。何かを自分がした「理由」も、まさに先生の定義通りなのだと思いました。

 私はこの直感を確かめるべく、ダイナにスカイプのテキストチャットで質問をしました。彼女なら何か教えてくれると思ったからです。私の拙い英語で何とかやりとりしました。

遅刻した理由は、ただ一つ

 私は「ある状況を思い浮かべて欲しい。君は学校の教室に着くのが遅れた。だから先生は、なぜ遅れたのかを尋ねるんだ。君はなぜ遅れたのかを先生に言わなくてはならない。例えば、いつも乗っていくバスに乗り遅れたと言う。僕はこの種のexplanationはreasonだと思う。正しいかい?」と言いました。

 ダイナは「ええ、そうね」と言いました。

 私:「あるいは、もし君が、"私は頭の病気を持っていて、毎朝早起きするのはとても辛いのです。"と言ったら、それはjustification(注記。私は自己正当化、弁明といった意味でこの言葉を用いました)だ。僕はこの種のjustificationもreasonだと思う。正しいかい?」

 ダイナ:「ええ、そう思う」

 私:「僕の先生はこう言った。reasonは2点間のつながりをダイレクトに説明するものだ、と。だから、もし君が遅れたことの説明が"今日はバスに乗り遅れた"ことであるなら、君はそれだけを言えばいい。もし君がこの説明に、さらに色々と追加するとしよう。"私はとてもグズなのです"とか"今日は朝食をとらなかったので疲れていました"といった具合に。こうなったら、もうreasonとは言えないと僕は思う」

 ダイナ:「ええ、そう思う。そのケースだと、それはexcuseになるんじゃないかな」

 私:「君が遅れたことは、数多くのcausesによって起きることだ。だから、そういったことはもうreasonとは言えない」

 ダイナ:「そうね。それと・・・さっきの"excuse"についてだけど。これって興味深い言葉じゃないかしら。この場合、悪いことの類よね(なぜなら、もちろん、グズな人間であることや、朝食をとらないことは避けることができるから)。でも、それはreasonとは全く言えない。どうしてかと言うと、さっきの"reason"は、結局のところ、バスに乗り遅れたということでしかないから。」

 私:「ああ、僕もそう思う。なぜって、もし君がバスにちゃんと乗れていたのなら、君は遅れてないんだから。君がもしグズな人間でも、あるいは朝食をとってなくても、君は遅れてないんだよ。正しいかい?」

 ダイナ:「正しいわ」

 私:「そうなると、僕の先生が言ってることはとても正しいように思えるよ。君も、僕の先生が言ったことは正しいと思うかい?」

 ダイナ:「ええ、そう思う。^^」

 私:「おお、すげ〜。自信持って言えるけど、たいがいの日本人はreasonの意味をこんな風には理解してないよ!」

 ダイナ:「あ〜、そうね、そんな風に考えると、reasonの意味を理解するのがどうして難しいのかが、私にもわかるわ。私はそれを知ってるのが当然だと思ってるんだと思う。なぜって私は英語を話すから、はは」

 私:「僕が考えるに、もし、ある一つのことが起きたら、それには数多くの(あるいは無限の)causesがあるんだ。でもreasonはもっとシンプルなもので、僕の先生が言ってることのようなものなんだ。正しい?」

 ダイナ:「ええ、そう思う。多くの事柄によって、そのreasonができあがるのかもしれない。でも、何かが引き起こした・作り上げた"reason" は、たった一つだけ。(注記。以上の日本語訳に自信が持てないので、元の英文を貼り付けます。Maybe a lot of things caused the reason, but there is only one"reason" that something happened.)

 私:「う〜ん、今僕は、英語を話す人は何かを説明するのが上手いなあ、あんな具合に、って思ってるよ。君はほんとに18歳なの?はは」

 ダイナ:「ははは。私は年上の人のようにふるまってるんだと思う」

Reasonと金儲けのつながり

 私:「僕の先生はこうも言った。"reasonはお金儲けをしたい・利益を得たいという欲望である"と。この言葉を最初見たとき、どうしてなんだろうと不思議に思ったよ。でも今はその意味がわかるし、正しいと思う。例えばね、もし君がたくさんのお金を手にしたいなら、君は、どうやってそれを最も効率的な方法、あるいは最も早い方法で実現できるかを、'directly'(直接に)考えるでしょ?」

 ダイナ:「あ〜、ふむむ・・」

 私:「もし、ある商人がそんな風に考えて、たくさんのお金を直接に・スピーディに手にしたいという欲望を持っていたら、彼は彼のreasonを使ってる。正しい?」

 ダイナ:「ふむむ、ええ、そう思う・・・」

「理性を使って自分をコントロールする」とは何か?

 私:「面白いな。なぜって、たいていの人は思考能力としてのreasonを、ただの哲学向けのものか、そういった類のもの向けのものだと思ってるから。reasonという言葉を使ってる文として最も有名なのはこんなだよ。"今俺は女の体をさわりたいけど、今はそれは良くないから、reasonを使って自分を抑えないといけない"。これが日本式のreason(日本語で理性)の使い方なんだよ。どう思う?」

 ダイナ:「あ〜・・・、それが同じreasonという言葉なのに、別の意味なのが面白いかも(私はほんとに、そんなことについて考えたことがなかった)。でも、とても似ているとも言えるわ・・・」(注記。訳に自信がないので、元の英文を貼り付けます。Ah... I guess it's interesting that it's the same word, but a different meaning. (I hadn't really thought about that before.) But at the same time, it is a very similar meaning...)

 私:「日本人は、reasonは(上に書いた例にあるように)感情をコントロールするという意味を持ってると考えてると、僕は思うよ」

 ダイナ:「あ〜」

 私:「もし、その女にさわりたい男が、さわってしまったら刑務所行きだと考えてるなら、彼は彼のreasonを使ってると言える。正しい?」

 ダイナ:「そうね」

 私:「もしその男がそんな風には考えないで、ただ単に彼の感情をコントロールしているだけなら、彼は彼のreasonを使ってるって言えるかい?」

 ダイナ:「ふむむ、私はそんな設定で考えたことなかったけど。ええ、reasonを使ってると思うわ。なぜなら、彼はまだ、感情をコントロールするために"reasonを使っている"と私は思うから」

 私:「もし彼が、"今さわったら、刑務所行きだ"とか"今さわったら、仕事を失う"とかって考えてるなら、彼はreasonを使ってると思うんだよ」

 ダイナ:「そうね」

 私:「もし彼がただ単に、女の体をさわることは非道徳的だとか、さわったら女が悲しむとかって考えてるだけなら、それはただ単に善良に・道徳的に考えてるだけであって、彼はreasonを使ってないと僕は思うんだよ」

 ダイナ:「ふむむ。私は、あなたの言うことは正しいと思う」

 私:「今思ったんだけど、多くの日本人は、reasonは、たた単に彼らの欲望や感情を道徳心と一緒にコントロールするものだと考えてるよ。あるいは、何か高尚に見えるようなことを考えることがreasonだと」

 ダイナ:「へ〜、面白いね」

 私:「うん、いつか君がマンガやアニメを見てる時に、男が欲望をコントロールするために"reason(理性)"を使ってる場面があると思うよ。これが日本では本当に有名な例だから」

 ダイナ:「へ〜、わかった」

Reasonableな値段とは?

 私:「僕は、あの直接性がreasonの意味を表してると思う。だから、reasonはお金儲けと利益を得る欲望なんだよ。それと、今僕は "reasonable price"の意味がわかった。もし、ある値段に不要なコストがたくさん含まれてるなら、それはreasonableとは言えないんだ。それで、もし、ある値段に少ないコストしかないなら、それはreasonableだ。正しい?」

 ダイナ:「ええ、そう思う。」

 私:「だから、そのreasonableな値段は、その品物が作られた工場とお店とが直接に結びつけられることによって、できあがったんだよ。正しいかい?」

ダイナ:「ええ、そう思う。それと、例えば、もしあるお店が500円で飲み物を売っているとするわね。でもあなたはそれを自動販売機で100円で買えるわけ。その時それは"unreasonable"って言える。なぜなら、それは(自動販売機で売られている)通常の値段より高いから。」

 私:「そうだね、500円払って買うのは、買う人にとってはunreasonableだ。なぜなら、彼らは品物に不要なコストが含まれていると思うし、それは'direct'な値段じゃないからだ。正しい?」

 ダイナ:「うん」

 私:「でも売り手からすれば、人々が500円払って毎日なんの不平不満もなくその品物を買ってくれるなら、それは彼にとってはすごく reasonableって言える。正しいかい?」

 ダイナ:「ふむむ、そうね、あなたはそれをreasonableとは言えないんじゃないかと思う(注記。元の英文は、I don't think you would call it "reasonable")。なぜって、それはまだreasonableとは言えないから(その売り手にとっては良い状態なんだろうけど、それはunreasonableよ。なぜって、おかしいもの。その値段が通常と同じかそれ以下なら、もっとたくさんの人が買うことになるのが当然でしょう)。 "reasonable"という言葉は、"logical"といった意味にかなり近いと私は思うから、そんな風に考えるわけ」

 私:「うん、'僕だったら'それをreasonableとは言わないと思うよ。でも、その売り手はその値段をreasonableって言うだろうと僕は思うよ」

 ダイナ:「はは、そうかも・・・。でもそうなると、"reasonable"っていう言葉はふさわしくなくなっていくと思うんだけど。(もし売り手が、 "(100円で売ってる)自動販売機にわざわざ行くよりも、ここで買った方が楽でしょう?その利便性にあなたたちはお金を払ってるわけですよ"と主張しするなら、買い手側の人たちはそれを"reasonable"って言えるかもしれないけど)」

 私:「そうだね、僕も同じ考えだ。僕が示した例はちょっと不自然だ。でも、もし、買い手側が何の不満も疑問もなく500円払って買ってくれることを、売り手が自明で確実なことだとわかっているなら、500円で売ることは彼にとってはreasonableなんだと僕は思うよ。」

 ダイナ:「ええ、そんな風に考えると、おかしくないわね」

 私:「なぜなら、その時売り手は値段と品物を直接に結びつけることができるからさ」

Reasonはダイレクトに簡潔に法則と理由を見出し、自己を正当化する

 以上が私とダイナの議論です。

 こうして考えてみると、reasonとは主体的・能動的な説明や自己正当化であることがわかります。3年ほど前に、副島先生に触発されて色々な英英辞典でreasonの意味を調べていた時に、explanationとjustificationという言葉によってreasonの意味が説明されていたことが思い出されます。

 フランス革命の時に多くのインテリが理性を称揚した理由がわかります。ものごとを主体的に説明できる喜びと、それを元に自分の行動に明確に論理的な意味づけを与えることができる。これこそがreasonなのであり、時にはそれが利益欲望の精神にもなるのであり、それすらも正当化できるものなのだと思います。例えば、とにかく金儲けすることが社会全体の幸せにもつながるという具合に正当化することもできます。経済学こそは、まさにreasonの積み重ねだと思います。


(転載終了)

 なぜReasonが利益欲望の精神とも言えるのか

 これに対して今、少しだけ追加したいことがある。なぜReasonが利益欲望の精神でもあるのか?ということについて、もう少し考えてみたいのだ。

 シンプルである。「こうすれば、お金が儲かる」という法則を見出すのがReasonであるからだ。世の中には様々な事象に満ちており、一つの物事の背後には無限の原因があるけれど、そういう複雑な世界の中に、一本の線を見出すのである。「こうすれば、確かにお金がどんどん儲かる」。そういうことなのだ。

 なるほど、このようなことの探求・追求・実践は、宗教家から嫌がられるはずであり、近代資本主義が生まれるまでに長い時間がかかったこともわかるのだ。
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仕組まれた昭和史―思想劇画 日中・太平洋戦争の真実 [歴史]


戦争の背景にあるものは何か?金融資本家たちのネットワークであり、その中での利権争いであり、そして彼らの意向に沿って利用される人々である。その上で庶民は人殺しに利用され、殺しあうことになるのだ。我々は戦争の大義やイデオロギーには裏があることを知らなければならない。

仕組まれた昭和史―思想劇画 日中・太平洋戦争の真実

仕組まれた昭和史―思想劇画 日中・太平洋戦争の真実

  • 作者: 副島 隆彦
  • 出版社/メーカー: 日本文芸社
  • 発売日: 2008/07
  • メディア: 単行本



戦争に巻き込まれた日本

 本書は先の大戦において日本がどのようなプロセスで戦争に導かれたのか(導いたのではない!)を示すものである。戦争とは、国民に選ばれた政府の代表者たちだけで起こされるものではない。ゆえに、一般市民の民意だけを反映するのではない。一般市民に戦争を起こす力などはない。戦争に必要なのは膨大なマネーと軍備、そして情報である。これらをものすごく優位な立場からコントロールできる人はいないのか?いるのならば、彼らは戦争にどのように関与するのか。あるいは、世界にどのような混沌を引き起こすのか。

 以下、私が本書の内容から学んだことを論じていきたい。

政府の背後にある世界的な力

 本書はその人たちを財閥であるとする。金融資本家たちのネットワークと言ってもよい。このネットワークは一国の政府の縄張りなどものともせず、ひょいひょいと越えて奥深くに入っていくのである。そんな彼らが戦争に関与すれば、ソ連とアメリカ、ドイツとイギリスといった敵対関係を越えて両方から利害を得ようとするのである。それが可能であるからだ。どちらか一方だけに関与して、限定した形で儲ける必要などない。両方に融資し、両方をコントロールした方が良いのである。こうして両者を争わせることの先に見えるものが、彼らの目指す世界であり、目標なのである。

 確かに政府は強大な力を持っているが、その政府に食い込むことでさらなる力を得ている人々がいる。政府の人間と言っても、その国の国民にだけ依拠しているのではない。むしろ、国の外にいて世界を広く動かしている金融資本家たちに依拠し、依存しているのである。そんな人たちが表向きは一国の政府の代表として正式に選ばれたことになっている。だから、彼らが成した悪は「日本が悪い」とか「アメリカが悪い」などとなる。そして、ただの庶民に過ぎない一般の国民どうしで互いに嫌いあい、憎しみあい、そしてそのまま戦争に利用されてしまう。政府の悪の背後に何があり、実は彼ら政治家たちは国民のためにだけ動いているのではないということを知らなくてはならない。

世界的な力によって育成される一国の指導者たち

 伊藤博文ほかの指導者はイギリスによって選抜された。伊藤は若いうちにライオネス・ロステャイルドに呼ばれてイギリスに留学している。憲法作成においても伊藤はロスチャイルドの指導を受けている。こういう背後関係のある伊藤が日本の総理大臣になってしまう。

 商人も育成される。ロスチャイルドやロックフェラーによって教えられ、利権を与えられる。それが三井や三菱。こうして世界とつながった人々が日本でも台頭するのだ。だから世界の流れと日本史は切り離せない。

 こうして、世界の中枢に呼び出され、特権的に情報や知識を与えられて育てられ、操られた人たちが戻ってきて統治する。だから裏にはコントローラーがいる。コントロールであるからには、生徒に世界の仕組みを全て教わるのではない。それでは都合良く利用することができない。コントローラーたちは情報を全て教えるのではなく、自分たちの都合のいい方向に動くように誘導すればいい。そんな操り人形が、一国の指導者として統治の任にあたる。
 
 今でもアメリカに留学して洗脳されて帰ってきて日本を立派にアメリカ様向けに統治しようとする政治家たちがいるようだ。適度に頭が悪かったり、情報に疎かったり、言葉の壁がある方が何かと使えるのだろう。せっかく培ってきた情報や知識を、おしみなく全て教えるわけがないではないか。だから、植民地や属国では、現地の王や将軍に統治をさせるのだろう。また、これによって、原住民の共感を呼ぶことができ、そして反乱などを起こしにくくする効果もあろう。

鉄砲玉として利用される人々

 戦争は、無機質な政府や国家が起こすものではない。野心をもった一家、一族、及び彼らと利権で結びついたものたちが積極的に世界を動かそうとするから、戦争が起こる。誰が(どんなネットワークが)、どのように政府に食い込み、何の目的で戦争を動かしたのか。その背後にある金は?利権は?勢力争いは?誰と誰が、争っていたのか?

 こういった視点が欠けたまま、ただ単に「日本が」「アメリカが」「イギリスが」戦争を起こした、などとしても無意味である。さらに「日本人が」「アメリカ人が」「イギリス人が」戦争を起こした、悪いことをしたなどとするのも無意味であり、人種偏見にもつながるだろう。

 一般庶民に戦争を起こす力などないのだ。利用され、兵隊にされて殺し合いに使われるだけの一般庶民どうしが憎しみあって、何の意味がある。

 こうした現実を知らないままに踊らされる人々が鉄砲玉となる。イデオロギーによっても操られる。好戦的になるように煽られる。こんなことのために一般庶民が使い捨てされる。だが一方で、日本による満州侵略は、貧しさから抜け出すために庶民が望んだことでもあった。

 理想や思想のために立ち上がったはずの人々が、実はそれを利用して他のことをしようとしていた人々に騙される。裏にある大きな流れをしないと、騙されて操られる。思想や理想などのイデオロギーの背後にあるものを見つめる必要がある。今なら、中国や韓国を嫌う書籍が山ほどあり、ネット言論でも多いのはなぜか考える必要がある。

 確かに中国人や韓国人には欠点があり、嫌なところがあるのだろう。よくそういった話を見聞きする。だが、政府によって統治されてる一般庶民の性格や、政府の政治家たちだけを批判してもせんないことだ。彼らの背後にあるものを見つめる必要がある。

 裏をあまり知らない人だからこそ、首相などにかつがれて、何も知らないままに利用されることもある。その現実を知らない情熱や理想が、利用される。裏の現実をどれくらい知ってるかのさじ加減で、どのようにもコントロールできる。情報を与えるさじ加減で。

 こういった大きなマクロの視点を一人一人が持てなければ、相も変わらずこれからも人間は大規模な戦争の歴史を繰り返すだけであろう。本書を読むことによって、強い権力を握る者こそが戦争を引き起こすことができるのだというシンプルな視点を獲得することができる。国家や政府どうしの争いという視点だけで戦争をとらえるから、その国家の一員である一般市民までが、互いの国を罵り合うことになってしまうのだ。

理性主義のリベラルは人々を上から統治したがる
 
 副島隆彦によれば本当の「世界皇帝」であるデイビッド・ロックフェラーも本書に登場する。若き日の彼はどのような人だったのか?本書より引用する。

(転載開始)

デイビッド・ロックフェラー自身が人類の理想社会を実現、即ち共産主義を信じ込んでいたのである。ただし、人類皆平等な社会を作ったのち、自分たちが哲人政治家(プラトンの『国家篇』)になって上から指導する、という思想であった。



(転載終了)

 マネジメントの大家であるピーター・ドラッカーによれば、このようなタイプの人間はRationalist Liberal(理性主義のリベラル)と称される(詳しくは彼の著書「産業人の未来」を参照してください)。彼らは真理を自覚し、身につけていると信じている。だから、他の全てを導く義務と責任に目覚め、そして上から大衆をコントローする情熱に、どうしても駆られてしまう。そして独裁者となり、結果として残酷な結果を引き起こしてしまう。フランス革命での虐殺であり、ヒトラーによるナチズムであり、共産主義による独裁である。

 彼らが身につけているとする真理は何でも良い。哲学でも遺伝学でも心理学でも、共産主義でもいい。彼らがそれを正しいと信じ込み、そして自分こそは真理を身につけており、ゆえに実践せずんばやまずと思えばいいだけのことなのだ。そういった正義が独裁を生み出す。

 どうやら、今現在でも世界の頂点で強い権力を握っている人々は、理性主義のリベラルであるようだ。




新訳 産業人の未来―改革の原理としての保守主義 (ドラッカー選書)

新訳 産業人の未来―改革の原理としての保守主義 (ドラッカー選書)

  • 作者: P.F. ドラッカー
  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 1998/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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「トム・ソーヤーの冒険」 マーク・トウェイン著 [児童小説]


私達が子供の頃に持っていた心と精神:ナルシストで、空想的で、屁理屈を言い、自分を見せびらかしたがり、名誉と賞賛を求め、何より冒険を夢見る子供の多面性を生々しく描く。

トム・ソーヤーの冒険〈上〉 (岩波少年文庫)

トム・ソーヤーの冒険〈上〉 (岩波少年文庫)

  • 作者: マーク トウェイン
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2001/10
  • メディア: 単行本


私達が子供の頃に持っていた心と精神

 本書は19世紀後半にアメリカで書かれた児童小説である。といっても、大人でも十分に楽しく読める。文体も、子供向けの簡単過ぎるものではなく、大人にも読み応えのあるものとなっている。なぜなら、子供の頃に持っていた生々しい心と精神を記憶の隅から呼び起こし、主人公のトムに深く共感しながら読み進めることができるからだ。

 私達が子供の頃に、好きな女の子にしたこと、どんな態度で接したのか、どんな形で自分をアピールしたのかが、もう恥ずかしくなるくらい生々しく書かれているよ!

 子供の頃に、自分を悲劇の主人公だと思い込んで、たそがれて、自分がこのまま死んだら回りの大人たちは悲しむだろうなあ、でも、自分はこのまま消えた方がいいんだ・・・、なんて思って、「すっかり満足した」(本書より)経験はないですか?だったら、読んだ方がいいよ!

 主人公のトムは小さな村に、おばさんといとこたちと一緒に住む、10〜11才くらいの少年。じっとしているのが苦手で、家や学校でしかられてばかり。何か新しい刺激がないかと常に探している。そんな、大人を困らせてばかりの少年であるが、大人から愛される存在でもある。

「見て見て!僕のこと!」と好きな子に無言のアピール!

 ある時、トムは新しく村にやってきたベッキーという少女に一目惚れした。ベッキーに出会う前にもトムは別の女の子が好きで、せっかく仲良くなったのに、そんなことはもうどうでもよくなった。

 ベッキーは囲いのある家の中にいて、窓からトムを見ていた。するとトムは、家の外の通りでぴょんぴょん飛び跳ねたり、踊ったりするのである。ベッキーに話しかけることはしない。じっと見ることもしない。ただただ、ベッキーが自分のことを見てくれていることを願いながら、ひたすら無言のアピールに励むのである。「見て見て!僕を!!」「ねえ、すごいでしょ?」「おもしろいでしょ??」「ねえ、ねえ!」というわけである。

「見せびらかし」の応酬

 ある日、トムは村の人気者になった。トムがちょっとした冒険に成功したからである。学校に着くと、みんなから囲まれる。トムは得意になって冒険談を語る。そこにベッキーがやってくる。トムとベッキーはその時、ケンカしていた仲だった。トムはベッキーに気づいてる。でも、ベッキーのそばにはいかない。代わりに、別の好きでもない女の子に対して話しかけている。つまり、ベッキーが自分を見ていることを気付きながら、それに気付かないふりをして、自分をアピールしてるのである!自分は人気者なんだよ、女の子とも、こうやって話してるんだよ。ふん、すごいだろ!見直したか!と見せつけてやったのだ。

 一方のベッキー。ベッキーも本当は早くトムと話したい。でも、それはしない。トムの回りに集まってる子供達に楽しそうに話しかけるだけ。そして、トムが自分を見てくれてることを求めてる。自分に話しかけてほしたがっている。でも、トムは、とうとう、ベッキーに話しかけないままだった。かわいそうなベッキーはとうとう泣きだしながらその場を去り、悲しい気持ちのまま授業を受けるのだった。そして思う。「この仕返しは、してやるんだから!」

 ベッキーの仕返しは何だったのか?それは、トムと同じことだった。他の男の子と仲良く本を読んでいるところを、わざとトムに見せびらかしてやるのだった。傷ついたトムはすっかり元気がなくなった。一方で、トムのベッキーへの見せびらかしに利用されたエミーという少女だけは、トムとおしゃべりできてうれしいままだった・・・。
 
大人も見せびらかしたがる

 このような「見せびらかし」が本書にキーワードの一つとなっている。原書の英語なら"show off”である。この本に出てくる大人たちはみんな見せびらかしたがる。自分の考え、自分の実績、自分の演説、自分の詩の美しさを、自分の悲しさなどを、競ってみんなの前で披露する。そしてそれらをみんなで受け入れて、お互いに満足しあうのだ。

 つまり、みんなが名誉や賞賛、共感を求めている。それによって自分を満足させようとしている。それを、みんなで気持ちよく行えるように、様々なセレモニーが行われる。だから本書に登場する大人たちは、自分の気持ちをたくさん語る。私が思うに、英語という言語は自分のことをたくさん語るのに適した文法と音声を持っているという理由もあるだろう。日本人だって大人は複雑な気持ちをたくさん持っているが、それを声に出して言うとなると、英語でしゃべるほどは上手く言えないだろう。だから日本人は寡黙だとか言われることになる。

 それはともかく、本書の子供達の心と精神を上手く表したところを紹介していこう。

適当な説明をでっちあげる

 あてもないのに宝物を探すために穴を掘るトムとハック。当然、見つからない。そこでトムは、他人が住んでる敷地にある木の下を掘ろうと提案する。ハックは疑問に思う。

(引用開始)

「そいつは、いいだろな。だけど、おくさんが、おらたちの宝物、取りあげやしねえか?あすこは、おくさんちの地所だもん。」
「おくさんが取りあげる?そりゃ、一度は取りあげたがるかもしれないさ。だけど、うまってた宝物は、見つけた人の物になるんだぜ。どの人の地所だってかまやしないんだ。」
これは満足のいく説明だった。仕事はつづいた。

(引用終了)

 子供の頃の私もトムと同じだったと思う。なにか適当なことをでっちあげて正当化したがるのだ。ただ単なる嘘ではなくて、その裏には世の中とはそういうものではないかという推測や確信のようなものがあったのだと思う。

常識にとらわれない理屈 

 何も見つけられないトム達だったが、失望はしない。なぜ見つからないのかを説明できるだけの理屈を持っているからだ。最初は「魔女の仕業に違いない」とするが「魔女は昼間はいねえよ」という的確なツッコミによって斥(しりぞ)けられる。しかし、「わかった!夜中に、木の枝がつくる影の部分を掘らなくちゃいけなかったんだ!」と提案すると、「しまった!だったら昼間掘っても意味がねえ。夜中に来ねえと。」とすっかり納得するのだった。

失敗から学んでいく

 トムたちは夜中にもう一度同じ場所にやってきて掘り始める。夜中に、木の枝がつくる影の部分を掘れば宝物がみつかると信じてるからだ。そして影の部分を掘り始める。何も出てこない。どうしてだろう?「しまった。おれたち、影のできる時間をあてずっぽうにしてたろ?」「それだ!」という有様である。
 
 私はこんなミスでも、経験しないよりは経験するべきだと思う。これによって、木の枝がつくる影の下に宝物が見つかるという説明に、「しかし、影のできる時間についても配慮しなくてはならない』という補足が必要となることが、実感できるからだ。実際に体を動かして、がんばって穴を掘った後で気づくのであるから、二度と同じミスはしないだろう。


誰が一番強いのか?を決めがたる

 トムによればロビン・フッドはあまりにも強くて、片腕をしばってでも、イギリス中のどんな人間でもやっつけてしまう。さらに、あまりに弓の腕が立つので、1マイル半離れたところにある銀貨さえも射抜いてしまうのだ。

 こういった話は私達日本人もいまだにやってることである。やれ、歴史上の人物の誰が一番強いだの誰が一番賢かったかだのを決めたがるではないか。実際の力とは、個人単体の能力だけでなく、環境、もっと言えばコネクションや利権のネットワークによって発揮されることに気づくのは大人になってからのことである。

人間の多様な精神を認めあうコミュニティの存在が、アメリカのデモクラシーの基本としてあった
 
 人間とは、みせびらかしたがるものなのだ。名誉と賞賛を求めるものなのだ。自分の気持ちを率直に伝える代わりに間接的にちょろちょろとアピールするものなのだ。ナルシストで、自分の悲劇を想像して気持ちよくなり「すっかり満足する」ものなのだ。

 そんな人間達が集まって一緒に住んでいる。ここで、各種のセレモニーの役割と意義について考えてみよう。みんなが集まって、それぞれ演説や詩の朗読、完璧な司会ぶりで自分をアピールする。それを受けた他のみんなが、拍手と歓声で応えてあげる。

 こうして、一人一人の人間が心も精神も満足していくのである。見せびらかしたい気持ちが昇華され、美しいセレモニーの中で溶け込んでいく。トムのような子供たちの場合なら、自分の冒険話をみんなの前で自慢することで自尊心が満たされる。あるいは、自分のいい加減な推測話を披露するにしても、それは自分なりに世の中や社会を「こうだろう」ということでとらえた知的な成果の披露であり、ゆえに受け入れられるとうれしくなり、昇華されるのである。

 互いに見せびらかしたがり、互いに賞賛しあう。そのための集まりが、学校やセレモニーの場にいつもあり、みんなでいつもワイワイやっている。こういった暮らしぶりが小説に描かれることができたのは、アメリカのデモクラシーの平等や自由といった理念が、ただ単なる形だけでなくて、コミュニティの中に生々しく根づいていたことの証なのではないか?

 デモクラシーの可能性は、こういったところにあるのではないだろうか?だからこそ、この「トム・ソーヤーの冒険」がアメリカから生まれ、子供の自由な心と精神の面白さが引き出され、注目されるようになったのではないだろうか?
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共和制(Republic System)とは何か?民主制とはどう違うのか。 [政治・経済評論]


ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ〈下〉 (講談社プラスアルファ文庫)

ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ〈下〉 (講談社プラスアルファ文庫)

  • 作者: 副島 隆彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2004/04
  • メディア: 文庫



あなたは民主制と共和制の区別が付くか?

 私は政治思想や歴史をかじってる(専門教育は受けてない)が、私と同じような趣向の人達は、果たして両者の区別がはっきりしているのだろうかと疑問に思うのだ。

 共和国と言えばフランスである。共和党と言えばアメリカである。それくらいなら私もわかっていた。イメージとしては、「君主制ではない」「暴力的な統治ではなさそうだ」「民主主義みたいな感じだ。似たようなもんじゃないの?」という感じが広く持たれているのではないだろうか?かつての私も多分、この程度のものだったと思う。

 私が共和制についての理解が深まったきっかけは、政治学者の副島隆彦による指摘を受けてのものだった。最初のきっかけは何だったろうか?たぶん、彼の著書『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ<下>』の中にある「共和政とは何か?」だったと思う。今から2〜3年前くらいにこの部分を読んだ。

 この本や、副島隆彦のウェブサイトでの共和制への言及を読んだりしていく内に、「共和制とは、代表者を選んで統治をさせるものであり、独裁ではない」という核となるイメージはつかんでいたようだ。

『銀河英雄伝説』の中における「共和主義者」

 そしてしばらく、共和制について考えることもしばらくなかったが、昨日ひょんなことから考え出すことになった。そして遂に、共和制とは何かについて頭がクリアになった。その学習の成果をここで披露し、よかったら皆さんの理解の役に立てばと思うわけです。

 実は今、動画投稿サイトYoutubeにて、人気アニメ『銀河英雄伝説』がアップロードされている。これは違反行為だから、たぶんすぐに削除されてしまうだろう。ただ、今回のアップが面白いのは、そこに英語字幕が付されていることである。たぶん英語ネイティブの方が日本語を翻訳し、他の多くの人の理解のためにアップしたのだろう。日本人の19歳の方がこの翻訳動画のアップロード者であるが、たぶん別の誰かがアップしたものの再アップであろう。

 それはともかく、このアニメは政治や戦争を扱ったものであり、ゆえにそれらの用語が頻出する。民主制と君主独裁制の2大国が互いに戦争をしあうのだが、どちらか一方のみが正義として描かれることはない。民主制の側は衆愚政治によって腐敗の極みに達しており、好戦的な政治家が民衆を戦争に駆り出してばかりいる。独裁国家の方は、民衆を専制で支配し、一部の貴族と血族のみが統治を独占しているが、その中で一部の有望な若者たちが現れる。彼らは民主主義者ではないが、腐敗した君主制を打倒し、民衆のためになる政治を行おうとしている。

 だから、民主制における腐敗を描き、「民主制によって選ばれた指導者が民衆に悪政を敷くことと、一部の貴族たちが民衆に悪政を敷くことの、どちらがタチが悪いのだろうか?」と民主主義の信奉者である主人公に自問させてしまうのである。

 そんなストーリーである。だからアニメの中に何度か「共和」という言葉が出てくる。私は全100話ぐらいの内の最初は10話くらいをざっと見ただけであるが、それでも二度は共和という言葉が語られていた。この使われ方が問題なのだ。

共和主義はDemocracyと訳し直された

 問題となるシーンは次の言葉が語られる所だ。「我々は共和主義者だ。捕虜を非人道的に扱うことはできん」。このセリフはそのまま訳すならRepublicanとするべきである。ところが字幕では、"Of course not.This is a Democracy."となっているのである。

 つまり、捕虜を人道的に扱うことはDemocracyなのであって、Republicではない。翻訳者はそのように判断したのだと私は考える。

 確かにそうなのだ。共和主義とは簡単に言えば、何人かの代表者によって統治を行うことであり、人道とは直接の関係はないのだ。たとえばローマの元老院(有力貴族による議会)は共和制であるが、このような一部の有力者による会議が人道と直接関係があると言えるだろうか?

 このような食い違いが起きるのは、我々日本人の共和制への理解が浅いからである。だから、これから共和制とは何かを先人の教えと辞書から学び、引用しようと思う。

では、共和制とは何か?

 まずは辞書の説明から。Encartaには共和つまりRepublicについての明確な説明がなされている。これを引用する。

(転載開始)

1. political system with elected representatives: a political system or form of government in which people elect representatives to exercise power for them

(転載終了)

 これが最も簡潔な定義である。「選ばれた代表者たちによる政治体制」であり、それによって「人々は代表者を選び、みんなの意志や意見を実行してもらう」わけである。

 なんだか民主主義っぽい感じがするが、焦点は「代表を選んで、その代表者たちが権力を行使する』という所に当てるべきである。この点を踏まえて次の2番目以降の定義を読むとイメージが具体化しやすいだろう。

(転載開始)

2. state with elected representatives: a country or other political unit whose government or political system is that of a republic

3. unit within larger country: a constituent political and territorial unit of a national federation or union

4. group with collective interests: a group of people who are considered to be equals and who have a collective interest, objective, or vocation ( formal )
the republic of letters

(転載終了)

 2は「選ばれた代表者たちが作り上げる体制」であり、国などの政府・政治の仕組みがそうなっている。

 3は(州などの)大きな政治単位が集まったものである。選挙権のある各州が集まって、政治を行おうとするわけだ。

 4は集団の利益を得るために活動するグループのことである。平等な権利を持つ人達が集まり、一つの共有する利益や目的や使命を果たそうとするわけだ。例として挙げられてる"the republic of letters"は、よく知らないけれど多分「文壇」とか「文芸協会」といった意味だろう。作家とかが集まって社会に対して働きかけようとしたり、影響力を持とうとするわけだ。

 以上でだいたいわかったのではないだろうか?共和とはつまり、何人かで集まって何かの権利を行使したり何かの利益を得ようとすることなのである。政治ならば、選ばれた代表者すなわち議員たちによる政治を行おうとすることである。つまり、独裁ではないのだ。

誰もが共和制に参加できるのではない

 ここまで来ると、なぜ銀河英雄伝説の英語字幕がRepubicからDemocracyに直されたのかもわかってきただろう。人道的に人々を扱うことと共和主義とは直接の関係はないのだ。もちろん共和制の国家はたいていは民主主義国家であるから、人道のイメージはある。だから「我々は共和主義者だ。捕虜を非人道的に扱うことはできん」としたのだろう。

 前掲書『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ〈下〉』では、2000年以上前のローマについて記されている。映画『スパルタカス』を基に共和主義や民主主義について深く論じている。以下しばらく、この本の内容を部分的にお伝えする。

 『スパルタカス』は奴隷の剣闘士であるスパルタカスが自由を求めて反乱を起こす映画である。この反乱が起きたのが紀元前73〜71年のこと。この時期は、古代ヨーロッパ世界全体の覇権国であったローマが共和政Republicから帝国Imperiumに移っていく過渡期であるとされる。つまり、有力貴族たちが構成する元老院と、新興軍人貴族が対立していた頃であり、軍人貴族の側が優勢になりつつあった時期だった。

 この軍人貴族がのちに皇帝となり、ローマを統治することになるのだが、皇帝だけがローマを統治していたのではなかった。富裕市民層(シチズン)の支持を受けた名門貴族による元老院と、軍人貴族の皇帝が争いあってきたのがローマの実態だった。

 元老院の選挙資格を持つのは富裕な市民だけであった。その辺の一般庶民ではない。富裕な市民しか政治に参加できなかったのである。

 以上が副島隆彦による指摘である。民主主義国家に付き物である三権分立や憲法典に基づく政治体制がどのように生み出されていったのか、その歴史についても副島隆彦は明確に述べている。政治に興味のある人におすすめです。

 こうして考えてみると、Republicとは、代表を選ぶ権利のある人達だけを厳選して選び直した人達の集まりということではないだろうか?だから、選挙権のある人は、たとえ民主主義国家であっても成年に達したものだけなのだ。子供にはRepublicに関わる資格はないというわけだ。とするとDemocracyとはRepublicの中に入る資格を多くの一般庶民にまで広げたものだと言えそうだ。だから民主主義国家には、一般庶民を広く保護する各種の権利が付き物なのである。


銀河英雄伝説 Vol.1

銀河英雄伝説 Vol.1

  • 出版社/メーカー: 徳間書店
  • メディア: DVD


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ミステリドラマ『フロスト警部』 第32話「暗闇のダンス」 [ミステリ]

ミステリの魅力とは何か。それは、人間に関わる現実や事実というリアルなパーツが、リアルな思考によって一つに組み合わされていくプロセスである。


下品な名刑事による巧みな推理(関連付け)

このテレビドラマはミステリであり、推理とそれに基づく事件の解決を楽しむものである。私はその魅力をこれから述べていくのですが、まだ未視聴の方に配慮して、ドラマの前半ぐらいまでしかネタバレにならないようにします。

舞台はイギリスのデントン市。架空の街である。フロスト警部は規律と上司への従順が求められる警察組織の中では浮いた存在である。所属する警察署の署長から呼び出しや指示をごまかしたり、書類仕事が苦手、そしてえげつなくて下品なジョークを得意とする、初老の有能な名刑事である。

どのように名刑事なのか。それはやはり推理である。推理とは単なる犯人当てではない。事件に関わる事実と事実を関連付ける能力のことであり、それによって筋道を見出すことである。

歯磨き粉に着目する

ドラマ中でフロストは、何度も様々なことを疑問に思い、それについて尋ねたり調べようとする。今回フロストが担当した事件は、ゴミ捨て場から発見された死体についてのものである。死体の検死によって、死体の歯に歯磨き粉が付着していたことが明かになった。このことをフロストに報告した彼の部下は、歯磨き粉が重要だとは思っていなかった。だからフロストとスケベ話を続けようとするのだが、フロストは歯磨き粉に鋭く反応した。そして、すぐさま死体の自宅へ赴き、妻に話を聞くことになるのだ。そして、自宅のトイレに行き、こっそりと歯磨き粉の一部を持ち帰ることにしたのだ。

なぜか。被害者が殺される前に自宅にいたのかどうかが明らかになるからだ。だからこそ、歯を磨いていたか否が事件解決の鍵となる。つまりフロストは、こういった重要性をすぐに見抜き、やるべきこともすぐに見出したのだ。一見些細なことも、フロストにとっては明白で重要な意味があった。ちなみに、視聴していた私は、フロストと同じようにすぐに重要性を見出すことはできなかった。だからこそ、「なるほどな」と後になって思うことができた。これがミステリの醍醐味である。

すぐに言質(げんち)を取り、矛盾を見出そうとする

被害者宅に赴いたフロストは他にも新しい発見があった。それは、妻の元に花束が届いていたことである。花束には次のようなメッセージがこめられたカードが添付してあった。「元気出して。ベイリスより」。この親しげなメッセージを送った男(ベイリス)が妻のセラピストであることを知ったフロストは、すぐさまベイリスのオフィスへと駆けつける。

ベイリスの顔には目の腫れがあった。すぐにフロストは気づき、「客からのクレームですか?」と言う。もちろん本心で言ってるのではなく、探りを入れるためである。ベイリスを怪しいと睨んだフロストはさらに次のように言いながらベイリスを追い詰めていく。

フロスト「ジョー(被害者)が亡くなったことはご存知で?」

ベイリス「ええ、ひどい話です。」

フロスト「ほう、誰から聞いたんですか?」・・・(A)

ベイリス「それは、奥さんから・・」

フロスト「いつ、聞いたんですか?」・・・(B)

ベイリス「家内と買い物をしていた時に会ったんです」

フロスト「最後にジョーを見たのはいつですか?」・・・(C)

ベイリス「2ヶ月ほど前です」

こうして尋ね終えたフロストは、「けっこうです。ありがとうございました」と言ってその場を去ろうとする。尋問がすぐに終わったベイリスは拍子抜けして「もう、いいんですか?」と言うが、「何かあったら連絡しますよ」と言い残してフロストは去っていく。

これだけで十分であった。初対面の男にこれだけ聞くことができた。あとは必要に応じて署内で話を聞けばよい。

なぜ十分なのか。上記(A)(B)(C)が本当かどうかは捜査の進展によって明らかになるからだ。もし矛盾点が見出されれば、それを元にベイリスを追い詰めていけばよい。「あなた、前に言ったことと違うことを言ってますよね?」と。これによって事件の真相が明らかになる。短い時間の間にフロストは十分な質問をし、言質を取ったのだ。

人間に関わる現実や事実というリアルなパーツが真実に統合されていく

このように視聴者は、フロスト警部による鋭い推理・着眼・関連付けの連続を楽しみながらドラマを見ていくことになる。つまり、フロストの推理によって事象と事象のつながりが明らかになったり、フロストによって示される新たな発見によって新たな着眼点が示されたりする。こうして、ドラマを見ながら、事実と事実が何らかの形で統合されていくプロセスを楽しむことになる。

もちろんフロスト警部のようなミステリドラマ以外のテレビドラマにもプロセスはある。だが、現実的にありうる一つの真実へ向けて事実が統合されていくプロセスこそがミステリの独自性である。そして、人間に関わる現実や事実というリアルなパーツが、リアルな思考によって一つに組み合わされていくということが、ミステリの魅力なのである。だからこそ、嘘くさいミステリは人気が無く、リアルで、人間臭いミステリこそが人気となるのである。フロスト警部もそのような人気作であると言える。
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「第一容疑者」リンダ・ラ・プラント著 [ミステリ]

警察による広域捜査網が事実を積み重ねていき、そして真実にたどりつくプロセスを緻密に描いた名作ミステリ。



第一容疑者 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

第一容疑者 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

  • 作者: リンダ ラ・プラント
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 1996/11
  • メディア: 文庫




リアル指向

本書はテレビドラマとして世界的に有名な「第一容疑者」の小説版である。ドラマの脚本を担当したリンダ・ラ・プラント自らが書きあげた。テレビドラマ版では主人公の主任警部ジェイン・テニスンの地道かつ警察の捜査網の広さを活用したリアルな捜査を描くことに成功した。本書でもそれには成功している。テレビドラマ版でのスピーディかつ濃厚な展開に付いていけず、細部の理解に不安を持っている方なら本書で補うといいだろう。また、テニスンがどのような人物として描写されているかを文章で知ることによって、テニスンという一人の女性のキャラクターをよりよく知ることができるだろう。もちろん、ドラマを見てない方にもお奨めである。

本書の舞台はイギリスのロンドン。主人公は、能力を活かす場を与えられずにくすぶっている中年女刑事ジェイン・テニスン。時は1990年。今から16年前という設定である。テニスンは上司や同僚から煙たがられ、せっかくの刑事としての手腕を存分に発揮できずにいた。この、女性であるがゆえの苦しみが本書の筋の一つである。同僚の刑事の突然の病死によって捜査の指揮権を得ることに成功したテニスンであったが、その病死した刑事の部下達には歓迎されない。中でも一人の部長刑事はテニスンが上司の死後すぐに捜査権をもぎ取りしゃしゃり出てきたことに我慢ならず、以後、嫌がらせや嫌みをネチネチと繰り返していくことになる。テニスンの味方は一人もいなかった。彼女の秘書である婦人警官すら「何を出しゃばってるのかしら。嫌な女よね」と陰口をたたく有様である。テニスンの捜査はこのような状況から始まることになる。果たしてどうなるのか。

積み重ねていく事実から見えてくるもの

着目すべきは事件解決のプロセスである。指揮権を引き継いだテニスンが最初にやることは引き継いだ資料を見直すことであった。取り寄せた被害者に関するファイルを見た彼女はその中のある項目に着目する。そして、それがはらむ矛盾点から彼女は疑問を抱き、その疑問が正当なものであるかどうかを確認するために事件現場に自ら赴き、被害者の衣服や靴を調べ、第一発見者であるアパートの管理人に話を聞く。それだけではなく、科研の担当者にも話を聞き、指紋の再採取を頼む。こうして捜査に関する新たな事実をつかんだ彼女は、新任の挨拶を兼ねて部下の刑事達の前で披露することになるのだった。

このように、刑事として行なうべきことを地道に積み重ねていくのである。その先に真実が見えてくる。積み重ねられた事実が自ずと真実を語る、というわけではない。事実は集まれど、真相はなかなか見えてこない。そんな時に開催される捜査会議で改めて事件を振り返り、意見を出し合う。その中のちょっとした着想が新たな進展を生み出したりするのである。しかしその前提として、着々と積み上げてきた事実がある。それがあるからこそ、意見が核心を突くということになるのである。この辺のプロセスを読者は楽しむことができる。

積み重ねられる事実は広域の捜査網によって得られるものである。容疑者について調べていくと、調べるべきことが広がっていく。科研によって示された被害者の(死体の)状態(殺され方)も、捜査網を広げずにはいられない。刑事として、なぜこのような異様な殺され方をされたのかについて着目すれば、それは捜査対象地域を広げることになるのである。そのプロセスは理にかなったものであり、刑事として行なうべき事である。

死体の状態、容疑者、容疑者の過去、容疑者の内縁の妻、容疑者の職場、被害者の過去、死体の発見場所などの、刑事達によって着々と積み上げられていく事実が、終盤になって一つに結びつけられていく。それは共通点を見ることであり、共通点を見るために何かに着眼することでもある。こういった刑事としての知的なプロセスや論理を読者は楽しむことができる。

孤独な女性刑事の戦い

一方で描かれるのは、孤独な中年キャリアウーマンとしてのテニスンである。恋人との関係はどうだったか。閑職に追いやられていた時は関係は良好だったが、捜査が始まってからのテニスンは激務をこなすようになり、次第に恋人ともすれ違っていく。この二人の関係がどのように変化していくのかということも読者は追うことになる。テニスンの仕事は恋人に理解されるのか?二人は互いに求めているものを得ることができるのか?

家族とのこともある。独身の中年女性であるジェインには妹と父母がいるのだが、妹は典型的な専業主婦であり、夫と子供達に囲まれて愛のある生活を送っている。料理が好きで、3人の子供を持つ。対してテニスンは独身であり、料理するくらいなら冷凍食品を買った方がマシであるとする。学校の授業でも家庭科よりも木工を選択した。愛されやすいのはもちろん妹の方であり、テニスンは仕事の関係上、愛を得にくい立場なのだ。

事件解決のために邁進するテニスンだが、家族と恋人に仕事を理解され、癒されることはあるのか。それがなかなか難しく・・・。このように、仕事の最中にも仕事の後にも何かと悩まされるテニスンであるが、キャリアウーマンの鏡として事件解決に進むことになるわけだった。この辺のリアルな描写も読者の共感を呼ぶだろう。

一人の女性主任警部の仕事および私生活上での奮闘と悩みを、著者であるリンダ・ラ・プラントは鋭く冷静な人間観によって読者に示す。テニスンは同僚の男達だけでなく、家族や恋人にも理解されない存在であるが、その理由がきちんと述べられている。なぜすれ違うのか、なぜ愛されないのか、その様を説得力のある形で示すことができているのである。テレビドラマでもそれは示されていたと思うが、文章として切々と述べられているあたりが違うところだ。

そういった人間ドラマをしっかりと踏まえた上で、刑事としての知的で冷静な行動を積み重ねていく様を描いていくわけである。この「第一容疑者」シリーズが「リアルである」と絶賛されるゆえんである。
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堕ちた弁護士 ニック・フォーリン 第17話「裂かれた絆」 [テレビドラマ]

「愛」とは何か。幸せになれる相手と場所を求めるアメリカの人々。


「愛」の様々な意味

CSテレビで放映された「堕ちた弁護士 ニック・フォーリン」(原タイトルは"The Guardian"。不幸な子供たちを守るために活躍する弁護士たちを描くテレビドラマ)第17話は「愛とは何か」を考えさせるものだった。というとクサイけど、見応えのある内容だったので仕方がない。我々になじみの「愛」とはどんな意味なのだろうか。私の場合、愛という言葉には「無償の愛」とか「差別無く広く行き渡るもの」といったイメージがあった。なにやら崇高なものなのである。だが、普通の人間同士が日常的に用いる「愛」とはそのようなものではないようだ。次の副島隆彦による「愛」の定義を引用する。 「副島隆彦の学問道場」の「今日のぼやき 614」から転載する。

(転載開始)

「人間どうしが、一緒にいて、その場で、気分がいい。気持ちがいい。楽しい。しあわせだ」これが、愛(あい)である。ということは、「一緒にいて、楽しくない。不愉快だ。気分が悪い。嫌悪感や憎しみしか感じない」時に、そこには愛は無いのである。

(転載終了)

この簡潔明瞭な定義はすばらしいと思う。西洋由来の「愛」の意味が日本人にとって明確になったのだ。この意味からすると、たとえばマザーテレサのような貧しい人のために広く捧げる愛とは何であろうか。あるいは、私がかつて想定していた「無償の」とか「差別無く広く行き渡るもの」としての愛とはなんであったのか。それは、「神への愛とか神からの愛である アガペー agape」(同じく「今日のぼやき 614より)の範疇に入るものだと思う。 niftyの辞書によればアガペーとは「キリスト教における愛。罪深い人間に対する神の愛、人間どうしの兄弟愛など、自己犠牲的・非打算的な愛をいい、エロス的愛とは区別する。」ということである。副島隆彦の先の定義は「地上の人間たちどうしのエロスの系統の方の愛である」(同じく「今日のぼやき 614)より)

愛される弟と愛されない兄

この二つの愛の区別を念頭に置いていただきたい。今回の「ニック・フォーリン」は兄弟の養子縁組がテーマである。ある二人の兄弟がいた。まだ子供であり、兄は14歳くらい、弟は10歳くらいであろうか。弟はまだ幼いのにIQが147もあり、大人びた口の利き方をする利発な子供である。一方で兄は、事故による脳の障害で言語機能に問題を抱えていた。うまくしゃべれないのである。元はスポーツ万能で活発な少年であったが、今は鬱屈とした感じで表情も暗い。そんな兄を弟がサポートしているのだ。

彼らの母親は軽い知的障害を持っており、子供を養子に出すことになった。そして里親が決まったのだった。ただし弟だけに。里親は弟だけを養子に引き取る契約をしたのだった。これに気付いた兄弟がCLS(Children's Legal Services:児童法律サービス)のニックの元へ助けを求めに来たのだ。一緒にいたい、離れたくはないのだ、と。だが、同じCLSの、ニックの同僚の弁護士ルルは既にこの件を担当しており、その契約を行なった里親と社会福祉局の側を支持していたのだった。里親は賢い弟のために名門校であるシカゴ大学へ入学させたいと言っている。ルルは、このようなチャンスを逃すべきではないと主張するのだった。里親の方に話を聞いてみるニック。里親によれば、兄は感情の抑えが効かず、自分をコントロールすることができない。里親の娘の入浴を覗いたりするのだそうだ。そんなことがあったので息子として迎えるわけにはいかないのだ、と。ニックは、兄は見捨てられようとしており、フェアじゃない、だから自分が兄弟を弁護すると言ってルルにくってかかるのだった。ちなみにルルとニックは、ルルには婚約者がいるのにニックが恋をしてしまったことがある間柄である。ここらへんも二人のやりとりに火を付けているのかもしれない。こうして同僚同士でありながらライバルとなった二人であった。

ニックのサポートにもかかわらず、一度は養子縁組が有効であることを裁判所で伝えられたが、それに反発し、あきらめられない二人の兄弟のためにニックは活動を続ける。ニックが母親の元へ話を聞きに行くと、彼女は二人が離されることに同意した覚えはないと言う。二人一緒に養子にするという条件で親権を放棄したようだった。そこでニックはこれを利用し、養子縁組を解除しようとする。一方でルルはすでにできあがってる契約書と母親のサインを盾に契約の有効性を訴える。だが、母親が契約内容の言葉の意味をよく知らないままサインしてしまったことを証明したニックが勝ち、養子縁組は無効となるのだった。

しかしニックは福祉施設にいる兄から呼び出しを受ける。聞くと、弟は毎晩泣いているという。裁判に勝ったのに、なぜか。弟は施設の環境を嘆いていたのだ。彼ほど賢い人間が福祉の同年代の子供達相手に楽しく付き合えることもなく、なおかつ、兄の世話もしなくてはならない。そんな状況にいる弟の心中を察した兄は、やはり弟は養子となり、名門シカゴ大学行くべきではないかと思うのだった。そして、再び裁判所の判事室へ呼び出された兄弟。判事に真意を問われる弟。「大丈夫です。子供達と興味の対象(このような大人びた言葉づかいをする)が違うだけです。インターネットもあるし、読書もできますし・・・」と言うのだが、兄に「マシュー、本当のことを言うんだ。シカゴ大学へ行きたいんじゃないのか」と言われると、しばらく間を置いた後、うなづくのだった。こうして二人は離れることになる。

この一連の話から私は「愛」を考えたのだった。愛がアガペーによるものであれば、養父母は兄弟共に引き取るはずである。だが養父母は挙動不審な兄は選ばず、賢いマシューだけを選んだ。裁判に列席した際、養父母はマシューと一緒に座った。そしてそこから離れて対立するニックと兄が座ったのだ。一度目の養子縁組を認める判決を受けた時、養父母はマシューに抱きついたのである。しかしマシューの表情は複雑だった。少し離れて、負けた兄もいた。であるが、養父母は喜び、マシューに抱きつくのである。裁判とは相争うものだからそういうものかもしれないが、兄弟を引き裂くことになる判決でもある。この養父母の兄弟への愛はエロスに基づくものである。ゆえに兄は捨てられるのである。

自分が幸せになりたい

だがもちろん、この養父母は兄の幸せを望むだろう。立派な若者になって欲しい、いい里親に見つかって欲しい、などど。だが、養子縁組するのは嫌なのである。このように兄の幸せを遠くから望む姿勢とは何だろうか。我々が遠くの地域、遠くの国の不幸な人々をテレビを通して嘆き、その将来の幸せを望む気持ちと同じようなものであろうか。これはこれで嘘ではないし、気持ちもこもっている。だが、その現地の人々を親身になって世話することはできない。だから我々も養父母と同じである。

養父母はマシューを引き取ることによって、少なくとも兄弟の内の一人は幸せにできると考えているのだろう。兄弟は元々共に施設にいたのだから、その内の一人の親となるだけでも立派なことではある。兄は娘の入浴を覗いてしまったのだ。これを実際に経験したことは、養子にするのをためらわすのに十分であったろう。兄は元々施設にいたのだし・・。そして実際、一時は引き離されることを拒んだ兄弟であったが、弟は密かにシカゴ大学へと思いを寄せ、それを察した兄は弟の自己実現のために一人我慢することを選んだのであった。よって、養父母の行なったことは、結果的に良かったことなのだ。エロスに基づく愛であったとしても。養父母は、マシューと一緒なら、楽しく、幸せになれると思ったのだろう。

マシューは自分が幸せになりたいと望んだ。施設の子供達に囲まれて過ごす生活よりも、自分と同じかそれ以上に賢い仲間達に囲まれて学ぶことを望んだのだ。自己実現であり、自分のために行きたいと思ったのだ。その後押しをしてくれたのが兄であり、また、かつては兄を気づかうあまり自己実現の欲望を抑えていたのであった。自己犠牲の愛、ということだろうか。自分が楽しく、幸せになりたい。あるいは、気分がいい、しあわせだと感じたい。シカゴ大学へ行くにあたり、マシューにはこれらの背景にあったことだろう。兄はそれを隠すことはないと伝えた。本当のことを言うんだ、と。そして、少しためらった後に、そうだ、自分はシカゴ大学へ行きたいのだと意思表示をしたのだった。

おそらく、そういった自分の気持ちを押し隠してしまっては幸せになれないのである。つまり、「愛」が無くてはつらいのである。自分が何を愛したいのか。それは、挙動不審な兄ではなくて賢いマシューであった。それは、施設の子供達に囲まれた生活ではなくシカゴ大学での知的な生活であった。そういうことなのだと、私は思うのだ。だから、「愛」の無くなった夫婦はつらいのであり、別れくなるのだ。「この人といても、楽しくない。気分が良くない。幸せでない。気持ちが良くない」と感じてしまうのだから。

自己犠牲の愛

言語障害を負ってしまった兄は、かつてが活発で運動神経が良かったから、それらが言語障害によって発揮できなくなることは辛いであろう。うまくしゃべれないから、スポーツをやっても指示を出したりして声を掛け合うこともできなくなる。するとチームスポーツをやる上では支障が出る。こうして、孤独になるのではないか。また、自分の言いたいことを言えなくなるつらさは、スポーツだけではないのである。入浴中の女の子を覗いてしまう背景にある彼の気持ちは、どこへ、どうやって向ければよかったのか。彼はまだ幼いのである。なのに、弟のために別れる決意をした。立派であり、自己犠牲の愛であろう。

好きな女の子と一緒にいたい、楽しくなりたい、幸せになりたい、と感じていたに違いない兄の気持ちはかなえれず、それがきっかけで暴走したものと私には思われる。愛したいものを愛せない。彼が愛したスポーツ、そして、愛したいと思った女の子。それらは今は遠ざかってしまった。だが彼は日々生きなくてはならない。生きていれば様々なことを要求される。災難も降りかかってくる。そのストレスに耐えなくてはならない。彼は一度目の判決、つまり養子縁組が正式に認められ、それによって二人が引き離されることが確定した時に弟と一緒に逃亡を企て、しかしすぐにニックに見つかってしまった。なだめようとするニックにパンチをお見舞いしてしまい、連行しようとする警護官に蹴りをいれる。彼は確かに自分をコントロールできないのである。なぜであろうか。それは、愛が無く、辛いからではないか。障害により失ったものが大きいというのに、さらに、愛する弟からも引き離されるのだ。自分を愛し、世話をしてくれる弟までが去ってしまう。これが社会が彼に要求するものであり、これに従うことが彼の義務なのである。そこには愛はない。愛が無くなり、つらいから、暴れるのではないか。

愛が無く、ただ単に要求され、義務に従うだけではつらいのである。だから、マシューだけを引き取ろうとする養父母の気持ちも同じである。好きになれない兄の方も無理して引き取り、それによって幸せになれないのであれば、無理が重なり、兄と同様に暴走してしまうかもしれないのだ。だから、自分にできること、つまり、愛を持って接することができるマシューだけでも、立派に育ててやりたい。そういうことではないだろうか。

だからマシューも、無理をするよりはシカゴ大学へ行って幸せになった方がいいのだろう。それを勧めた兄の行為を受け入れ、幸せになる方へ進むことを望んだマシュー。兄は自分がつらいからこそ、マシューには幸せになって欲しかったのかもしれない。

いつか、愛されるために

自分が幸せになることが良いことであり、その上でできることをする。自分を殺して無理をするよりは、その方がいい。アメリカには、そういった考え方が浸透しているのではないかと私は思う。

いつの日か兄も幸せになってもらいたい。彼を愛してくれる人は誰であろうか。同じ苦しみを味わった人であろうか。それゆえに彼の苦しみを理解してくれる人であろうか。そんな彼を受け入れ、自然に愛せる人であろうか。「彼には幸せになって欲しい」と遠くから言う人ではなくて、彼を直接受け止めてくれる人が現れてほしい。

こうして考えると、社会とは多様性を必要とするのだ。なぜなら、多様な人や事柄それぞれに愛を向け、それらを受け入れる多様な人々あるいはコミュニティが必要であるからだ。
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呪縛 金融腐蝕列島Ⅱ [金融小説]

金目当ての連中(ヤクザと総会屋)に弱みを握られ、つけこまれる存在としての銀行を描く。
呪縛〈上〉―金融腐蝕列島2 (角川文庫)

呪縛〈上〉―金融腐蝕列島2 (角川文庫)

  • 作者: 高杉 良
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2000/10
  • メディア: 文庫

本書を読めば、ゆすり・たかりの構図が見えてくる。金の流れの背後にあるものは、弱みを握っている者と握られた者同士の連係プレーであり、あるいは、互いの利益のために銀行という社会的機関を私的に活用しようとする者達の蠢(うごめ)きである。

本書は首都圏のトップクラスの架空の銀行を舞台とする。この銀行のトップが、古くから大物総会屋と深い付き合いがあったことから、彼らにつけ込まれ、利用されるようになった。利用されるというのはもちろん銀行の中の金が彼らの元へと流されるということである。

大物総会屋は、自分の子分を銀行トップに紹介した。この男に金を貸してやれということだった。銀行は彼に金を貸した。なぜ上手くいったのか。それは、大物総会屋が弱みにつけ込んだからだった。融資を担当した銀行員が、こともあろうに大物総会屋が紹介した(融資を頼んだ)旅館の女将と不倫の中になってしまい、「キンタマを握られた」(本書より)からである。ここから、大物総会屋の子分とのズブズブの関係が広がっていくことになる。なぜなら、この融資を担当した男が銀行のトップへと登りつめていくからだ!

このような男がトップとなったからには、この銀行は常に弱みをさらけ出していることになる・・・弱みにつけ込み、金を吸い取ろうとする連中に。金と女。そして、それを使った脅し。つけこみ。

弱みを握られた男は、しかし、それでふさぎこむようなタマではなかった。大物総会屋へ利益を供与しつつ、その付き合いを深めていった。つまり、不正融資を続けていった。この男はまた、多くの部下に目をかけてやって上へと引っ張った。つまり、頭取や会長へと引っ張っていった。こうして恩を着せておくという形で自身の影響力を持ち続けたのだ。彼は頭取から会長へと登りつめた後も、相談役として強い権力を維持していた。

このような銀行であるから、上の者の不正融資を下の者が厳しく指弾することが難しいのである。これは、銀行につけ込む総会屋やヤクザにとってはおいしい状況である。彼らにしてみれば、弱みを握られている者がトップであり続ける方が良いのである。こうして、持ちつ持たれつの汚い関係ががっちりと出来上がっているわけだ。  

これを象徴する場面として例えば、何百もの購読雑誌がある。銀行が購読している雑誌なのだが、この数多くの雑誌は高額であり、それを毎月・毎年購入するのにも銀行は大金を払わなければならない。なぜそんなことをするのか。それは、この雑誌が総会屋が発行しているものだからだ。買わなければ、総会屋は街宣車で有ること無いことわめきちらし、株主総会で罵声を浴びせてくる。これを避けるために大金を払い、口封じをしなくてはならないのだ。総会屋はもちろん、最初から金目当てである。そのための言論であり、雑誌なわけだ。よくできた集金システム、錬金術である。

こういった、弱みにつけ込まれた形で出世をしてきた自分自身について「君はまだ若いが、清濁併せ飲むことも、必要なんだ」と開き直って言うことができるのが、この架空の銀行のトップの男なのだ。会長職を退いた後も自身の影響力を誇示し、後進の人事に介入してくる。「君が今、会長でいられるのは誰のおかげだと思ってるんだ!」といった具合に恫喝することができる。それだけで足りなければ、別の有力者を銀行外から持ってきて、行内の重要事に介入させる。

もちろん、こういった形で介入を許せば、それだけ銀行の独立性が失われ、何かとつけ込まれることになってしまうのだが、それを許してしまうのがこの男なのである。鈍感であり、マイナス面を見ることができない。つまり、あまり合理的な思考をすることができず、自分が利用され、つけ込まれている弱い存在であることよりも、権力を振るうことができる強い人間であるという面ばかりを見ている。だから、銀行の自主独立性を高めるための合理性は持っていない。だから、総会屋ではないが、筋の悪い融資先の不動産会社にもつけこまれて銀行への介入を許している自体にも、「この不動産会社とは、運命共同体なのだ」と言ってしまう。

このような、清冽ではなく、銀行の自主独立性を高めるための合理的思考が弱く、ズブズブの現状に鈍感であり、なおかつ権力欲の高い男こそは、闇社会を含めた多くの人間にとって利用しがいがあるわけだ。トップとは、かくあるべし、と言えるだろう。利用したい人にとっては。

このような銀行での不正融資が、ついに大々的に発覚し、マスコミと世間一般から厳しく指弾されるようになった。この状況に立ち向かおうとするミドルクラスの若手社員を主人公となっている。彼が、彼と同じく現状を改善したいと願う行員と共に果敢に行動に打って出るのが本書の主な流れである。

上に述べてきたような、金をめぐって歪められた銀行を、どうやって変えていくのか。また、変えていこうにも、それを許そうとしない諸勢力の介入をどうやって排除していくのか。これが本書の楽しみ方となる。


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