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堕ちた弁護士 ニック・フォーリン 第17話「裂かれた絆」 [テレビドラマ]

「愛」とは何か。幸せになれる相手と場所を求めるアメリカの人々。


「愛」の様々な意味

CSテレビで放映された「堕ちた弁護士 ニック・フォーリン」(原タイトルは"The Guardian"。不幸な子供たちを守るために活躍する弁護士たちを描くテレビドラマ)第17話は「愛とは何か」を考えさせるものだった。というとクサイけど、見応えのある内容だったので仕方がない。我々になじみの「愛」とはどんな意味なのだろうか。私の場合、愛という言葉には「無償の愛」とか「差別無く広く行き渡るもの」といったイメージがあった。なにやら崇高なものなのである。だが、普通の人間同士が日常的に用いる「愛」とはそのようなものではないようだ。次の副島隆彦による「愛」の定義を引用する。 「副島隆彦の学問道場」の「今日のぼやき 614」から転載する。

(転載開始)

「人間どうしが、一緒にいて、その場で、気分がいい。気持ちがいい。楽しい。しあわせだ」これが、愛(あい)である。ということは、「一緒にいて、楽しくない。不愉快だ。気分が悪い。嫌悪感や憎しみしか感じない」時に、そこには愛は無いのである。

(転載終了)

この簡潔明瞭な定義はすばらしいと思う。西洋由来の「愛」の意味が日本人にとって明確になったのだ。この意味からすると、たとえばマザーテレサのような貧しい人のために広く捧げる愛とは何であろうか。あるいは、私がかつて想定していた「無償の」とか「差別無く広く行き渡るもの」としての愛とはなんであったのか。それは、「神への愛とか神からの愛である アガペー agape」(同じく「今日のぼやき 614より)の範疇に入るものだと思う。 niftyの辞書によればアガペーとは「キリスト教における愛。罪深い人間に対する神の愛、人間どうしの兄弟愛など、自己犠牲的・非打算的な愛をいい、エロス的愛とは区別する。」ということである。副島隆彦の先の定義は「地上の人間たちどうしのエロスの系統の方の愛である」(同じく「今日のぼやき 614)より)

愛される弟と愛されない兄

この二つの愛の区別を念頭に置いていただきたい。今回の「ニック・フォーリン」は兄弟の養子縁組がテーマである。ある二人の兄弟がいた。まだ子供であり、兄は14歳くらい、弟は10歳くらいであろうか。弟はまだ幼いのにIQが147もあり、大人びた口の利き方をする利発な子供である。一方で兄は、事故による脳の障害で言語機能に問題を抱えていた。うまくしゃべれないのである。元はスポーツ万能で活発な少年であったが、今は鬱屈とした感じで表情も暗い。そんな兄を弟がサポートしているのだ。

彼らの母親は軽い知的障害を持っており、子供を養子に出すことになった。そして里親が決まったのだった。ただし弟だけに。里親は弟だけを養子に引き取る契約をしたのだった。これに気付いた兄弟がCLS(Children's Legal Services:児童法律サービス)のニックの元へ助けを求めに来たのだ。一緒にいたい、離れたくはないのだ、と。だが、同じCLSの、ニックの同僚の弁護士ルルは既にこの件を担当しており、その契約を行なった里親と社会福祉局の側を支持していたのだった。里親は賢い弟のために名門校であるシカゴ大学へ入学させたいと言っている。ルルは、このようなチャンスを逃すべきではないと主張するのだった。里親の方に話を聞いてみるニック。里親によれば、兄は感情の抑えが効かず、自分をコントロールすることができない。里親の娘の入浴を覗いたりするのだそうだ。そんなことがあったので息子として迎えるわけにはいかないのだ、と。ニックは、兄は見捨てられようとしており、フェアじゃない、だから自分が兄弟を弁護すると言ってルルにくってかかるのだった。ちなみにルルとニックは、ルルには婚約者がいるのにニックが恋をしてしまったことがある間柄である。ここらへんも二人のやりとりに火を付けているのかもしれない。こうして同僚同士でありながらライバルとなった二人であった。

ニックのサポートにもかかわらず、一度は養子縁組が有効であることを裁判所で伝えられたが、それに反発し、あきらめられない二人の兄弟のためにニックは活動を続ける。ニックが母親の元へ話を聞きに行くと、彼女は二人が離されることに同意した覚えはないと言う。二人一緒に養子にするという条件で親権を放棄したようだった。そこでニックはこれを利用し、養子縁組を解除しようとする。一方でルルはすでにできあがってる契約書と母親のサインを盾に契約の有効性を訴える。だが、母親が契約内容の言葉の意味をよく知らないままサインしてしまったことを証明したニックが勝ち、養子縁組は無効となるのだった。

しかしニックは福祉施設にいる兄から呼び出しを受ける。聞くと、弟は毎晩泣いているという。裁判に勝ったのに、なぜか。弟は施設の環境を嘆いていたのだ。彼ほど賢い人間が福祉の同年代の子供達相手に楽しく付き合えることもなく、なおかつ、兄の世話もしなくてはならない。そんな状況にいる弟の心中を察した兄は、やはり弟は養子となり、名門シカゴ大学行くべきではないかと思うのだった。そして、再び裁判所の判事室へ呼び出された兄弟。判事に真意を問われる弟。「大丈夫です。子供達と興味の対象(このような大人びた言葉づかいをする)が違うだけです。インターネットもあるし、読書もできますし・・・」と言うのだが、兄に「マシュー、本当のことを言うんだ。シカゴ大学へ行きたいんじゃないのか」と言われると、しばらく間を置いた後、うなづくのだった。こうして二人は離れることになる。

この一連の話から私は「愛」を考えたのだった。愛がアガペーによるものであれば、養父母は兄弟共に引き取るはずである。だが養父母は挙動不審な兄は選ばず、賢いマシューだけを選んだ。裁判に列席した際、養父母はマシューと一緒に座った。そしてそこから離れて対立するニックと兄が座ったのだ。一度目の養子縁組を認める判決を受けた時、養父母はマシューに抱きついたのである。しかしマシューの表情は複雑だった。少し離れて、負けた兄もいた。であるが、養父母は喜び、マシューに抱きつくのである。裁判とは相争うものだからそういうものかもしれないが、兄弟を引き裂くことになる判決でもある。この養父母の兄弟への愛はエロスに基づくものである。ゆえに兄は捨てられるのである。

自分が幸せになりたい

だがもちろん、この養父母は兄の幸せを望むだろう。立派な若者になって欲しい、いい里親に見つかって欲しい、などど。だが、養子縁組するのは嫌なのである。このように兄の幸せを遠くから望む姿勢とは何だろうか。我々が遠くの地域、遠くの国の不幸な人々をテレビを通して嘆き、その将来の幸せを望む気持ちと同じようなものであろうか。これはこれで嘘ではないし、気持ちもこもっている。だが、その現地の人々を親身になって世話することはできない。だから我々も養父母と同じである。

養父母はマシューを引き取ることによって、少なくとも兄弟の内の一人は幸せにできると考えているのだろう。兄弟は元々共に施設にいたのだから、その内の一人の親となるだけでも立派なことではある。兄は娘の入浴を覗いてしまったのだ。これを実際に経験したことは、養子にするのをためらわすのに十分であったろう。兄は元々施設にいたのだし・・。そして実際、一時は引き離されることを拒んだ兄弟であったが、弟は密かにシカゴ大学へと思いを寄せ、それを察した兄は弟の自己実現のために一人我慢することを選んだのであった。よって、養父母の行なったことは、結果的に良かったことなのだ。エロスに基づく愛であったとしても。養父母は、マシューと一緒なら、楽しく、幸せになれると思ったのだろう。

マシューは自分が幸せになりたいと望んだ。施設の子供達に囲まれて過ごす生活よりも、自分と同じかそれ以上に賢い仲間達に囲まれて学ぶことを望んだのだ。自己実現であり、自分のために行きたいと思ったのだ。その後押しをしてくれたのが兄であり、また、かつては兄を気づかうあまり自己実現の欲望を抑えていたのであった。自己犠牲の愛、ということだろうか。自分が楽しく、幸せになりたい。あるいは、気分がいい、しあわせだと感じたい。シカゴ大学へ行くにあたり、マシューにはこれらの背景にあったことだろう。兄はそれを隠すことはないと伝えた。本当のことを言うんだ、と。そして、少しためらった後に、そうだ、自分はシカゴ大学へ行きたいのだと意思表示をしたのだった。

おそらく、そういった自分の気持ちを押し隠してしまっては幸せになれないのである。つまり、「愛」が無くてはつらいのである。自分が何を愛したいのか。それは、挙動不審な兄ではなくて賢いマシューであった。それは、施設の子供達に囲まれた生活ではなくシカゴ大学での知的な生活であった。そういうことなのだと、私は思うのだ。だから、「愛」の無くなった夫婦はつらいのであり、別れくなるのだ。「この人といても、楽しくない。気分が良くない。幸せでない。気持ちが良くない」と感じてしまうのだから。

自己犠牲の愛

言語障害を負ってしまった兄は、かつてが活発で運動神経が良かったから、それらが言語障害によって発揮できなくなることは辛いであろう。うまくしゃべれないから、スポーツをやっても指示を出したりして声を掛け合うこともできなくなる。するとチームスポーツをやる上では支障が出る。こうして、孤独になるのではないか。また、自分の言いたいことを言えなくなるつらさは、スポーツだけではないのである。入浴中の女の子を覗いてしまう背景にある彼の気持ちは、どこへ、どうやって向ければよかったのか。彼はまだ幼いのである。なのに、弟のために別れる決意をした。立派であり、自己犠牲の愛であろう。

好きな女の子と一緒にいたい、楽しくなりたい、幸せになりたい、と感じていたに違いない兄の気持ちはかなえれず、それがきっかけで暴走したものと私には思われる。愛したいものを愛せない。彼が愛したスポーツ、そして、愛したいと思った女の子。それらは今は遠ざかってしまった。だが彼は日々生きなくてはならない。生きていれば様々なことを要求される。災難も降りかかってくる。そのストレスに耐えなくてはならない。彼は一度目の判決、つまり養子縁組が正式に認められ、それによって二人が引き離されることが確定した時に弟と一緒に逃亡を企て、しかしすぐにニックに見つかってしまった。なだめようとするニックにパンチをお見舞いしてしまい、連行しようとする警護官に蹴りをいれる。彼は確かに自分をコントロールできないのである。なぜであろうか。それは、愛が無く、辛いからではないか。障害により失ったものが大きいというのに、さらに、愛する弟からも引き離されるのだ。自分を愛し、世話をしてくれる弟までが去ってしまう。これが社会が彼に要求するものであり、これに従うことが彼の義務なのである。そこには愛はない。愛が無くなり、つらいから、暴れるのではないか。

愛が無く、ただ単に要求され、義務に従うだけではつらいのである。だから、マシューだけを引き取ろうとする養父母の気持ちも同じである。好きになれない兄の方も無理して引き取り、それによって幸せになれないのであれば、無理が重なり、兄と同様に暴走してしまうかもしれないのだ。だから、自分にできること、つまり、愛を持って接することができるマシューだけでも、立派に育ててやりたい。そういうことではないだろうか。

だからマシューも、無理をするよりはシカゴ大学へ行って幸せになった方がいいのだろう。それを勧めた兄の行為を受け入れ、幸せになる方へ進むことを望んだマシュー。兄は自分がつらいからこそ、マシューには幸せになって欲しかったのかもしれない。

いつか、愛されるために

自分が幸せになることが良いことであり、その上でできることをする。自分を殺して無理をするよりは、その方がいい。アメリカには、そういった考え方が浸透しているのではないかと私は思う。

いつの日か兄も幸せになってもらいたい。彼を愛してくれる人は誰であろうか。同じ苦しみを味わった人であろうか。それゆえに彼の苦しみを理解してくれる人であろうか。そんな彼を受け入れ、自然に愛せる人であろうか。「彼には幸せになって欲しい」と遠くから言う人ではなくて、彼を直接受け止めてくれる人が現れてほしい。

こうして考えると、社会とは多様性を必要とするのだ。なぜなら、多様な人や事柄それぞれに愛を向け、それらを受け入れる多様な人々あるいはコミュニティが必要であるからだ。
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