「トム・ソーヤーの冒険」 マーク・トウェイン著 [児童小説]
私達が子供の頃に持っていた心と精神:ナルシストで、空想的で、屁理屈を言い、自分を見せびらかしたがり、名誉と賞賛を求め、何より冒険を夢見る子供の多面性を生々しく描く。
私達が子供の頃に持っていた心と精神
本書は19世紀後半にアメリカで書かれた児童小説である。といっても、大人でも十分に楽しく読める。文体も、子供向けの簡単過ぎるものではなく、大人にも読み応えのあるものとなっている。なぜなら、子供の頃に持っていた生々しい心と精神を記憶の隅から呼び起こし、主人公のトムに深く共感しながら読み進めることができるからだ。
私達が子供の頃に、好きな女の子にしたこと、どんな態度で接したのか、どんな形で自分をアピールしたのかが、もう恥ずかしくなるくらい生々しく書かれているよ!
子供の頃に、自分を悲劇の主人公だと思い込んで、たそがれて、自分がこのまま死んだら回りの大人たちは悲しむだろうなあ、でも、自分はこのまま消えた方がいいんだ・・・、なんて思って、「すっかり満足した」(本書より)経験はないですか?だったら、読んだ方がいいよ!
主人公のトムは小さな村に、おばさんといとこたちと一緒に住む、10〜11才くらいの少年。じっとしているのが苦手で、家や学校でしかられてばかり。何か新しい刺激がないかと常に探している。そんな、大人を困らせてばかりの少年であるが、大人から愛される存在でもある。
「見て見て!僕のこと!」と好きな子に無言のアピール!
ある時、トムは新しく村にやってきたベッキーという少女に一目惚れした。ベッキーに出会う前にもトムは別の女の子が好きで、せっかく仲良くなったのに、そんなことはもうどうでもよくなった。
ベッキーは囲いのある家の中にいて、窓からトムを見ていた。するとトムは、家の外の通りでぴょんぴょん飛び跳ねたり、踊ったりするのである。ベッキーに話しかけることはしない。じっと見ることもしない。ただただ、ベッキーが自分のことを見てくれていることを願いながら、ひたすら無言のアピールに励むのである。「見て見て!僕を!!」「ねえ、すごいでしょ?」「おもしろいでしょ??」「ねえ、ねえ!」というわけである。
「見せびらかし」の応酬
ある日、トムは村の人気者になった。トムがちょっとした冒険に成功したからである。学校に着くと、みんなから囲まれる。トムは得意になって冒険談を語る。そこにベッキーがやってくる。トムとベッキーはその時、ケンカしていた仲だった。トムはベッキーに気づいてる。でも、ベッキーのそばにはいかない。代わりに、別の好きでもない女の子に対して話しかけている。つまり、ベッキーが自分を見ていることを気付きながら、それに気付かないふりをして、自分をアピールしてるのである!自分は人気者なんだよ、女の子とも、こうやって話してるんだよ。ふん、すごいだろ!見直したか!と見せつけてやったのだ。
一方のベッキー。ベッキーも本当は早くトムと話したい。でも、それはしない。トムの回りに集まってる子供達に楽しそうに話しかけるだけ。そして、トムが自分を見てくれてることを求めてる。自分に話しかけてほしたがっている。でも、トムは、とうとう、ベッキーに話しかけないままだった。かわいそうなベッキーはとうとう泣きだしながらその場を去り、悲しい気持ちのまま授業を受けるのだった。そして思う。「この仕返しは、してやるんだから!」
ベッキーの仕返しは何だったのか?それは、トムと同じことだった。他の男の子と仲良く本を読んでいるところを、わざとトムに見せびらかしてやるのだった。傷ついたトムはすっかり元気がなくなった。一方で、トムのベッキーへの見せびらかしに利用されたエミーという少女だけは、トムとおしゃべりできてうれしいままだった・・・。
大人も見せびらかしたがる
このような「見せびらかし」が本書にキーワードの一つとなっている。原書の英語なら"show off”である。この本に出てくる大人たちはみんな見せびらかしたがる。自分の考え、自分の実績、自分の演説、自分の詩の美しさを、自分の悲しさなどを、競ってみんなの前で披露する。そしてそれらをみんなで受け入れて、お互いに満足しあうのだ。
つまり、みんなが名誉や賞賛、共感を求めている。それによって自分を満足させようとしている。それを、みんなで気持ちよく行えるように、様々なセレモニーが行われる。だから本書に登場する大人たちは、自分の気持ちをたくさん語る。私が思うに、英語という言語は自分のことをたくさん語るのに適した文法と音声を持っているという理由もあるだろう。日本人だって大人は複雑な気持ちをたくさん持っているが、それを声に出して言うとなると、英語でしゃべるほどは上手く言えないだろう。だから日本人は寡黙だとか言われることになる。
それはともかく、本書の子供達の心と精神を上手く表したところを紹介していこう。
適当な説明をでっちあげる
あてもないのに宝物を探すために穴を掘るトムとハック。当然、見つからない。そこでトムは、他人が住んでる敷地にある木の下を掘ろうと提案する。ハックは疑問に思う。
(引用開始)
「そいつは、いいだろな。だけど、おくさんが、おらたちの宝物、取りあげやしねえか?あすこは、おくさんちの地所だもん。」
「おくさんが取りあげる?そりゃ、一度は取りあげたがるかもしれないさ。だけど、うまってた宝物は、見つけた人の物になるんだぜ。どの人の地所だってかまやしないんだ。」
これは満足のいく説明だった。仕事はつづいた。
(引用終了)
子供の頃の私もトムと同じだったと思う。なにか適当なことをでっちあげて正当化したがるのだ。ただ単なる嘘ではなくて、その裏には世の中とはそういうものではないかという推測や確信のようなものがあったのだと思う。
常識にとらわれない理屈
何も見つけられないトム達だったが、失望はしない。なぜ見つからないのかを説明できるだけの理屈を持っているからだ。最初は「魔女の仕業に違いない」とするが「魔女は昼間はいねえよ」という的確なツッコミによって斥(しりぞ)けられる。しかし、「わかった!夜中に、木の枝がつくる影の部分を掘らなくちゃいけなかったんだ!」と提案すると、「しまった!だったら昼間掘っても意味がねえ。夜中に来ねえと。」とすっかり納得するのだった。
失敗から学んでいく
トムたちは夜中にもう一度同じ場所にやってきて掘り始める。夜中に、木の枝がつくる影の部分を掘れば宝物がみつかると信じてるからだ。そして影の部分を掘り始める。何も出てこない。どうしてだろう?「しまった。おれたち、影のできる時間をあてずっぽうにしてたろ?」「それだ!」という有様である。
私はこんなミスでも、経験しないよりは経験するべきだと思う。これによって、木の枝がつくる影の下に宝物が見つかるという説明に、「しかし、影のできる時間についても配慮しなくてはならない』という補足が必要となることが、実感できるからだ。実際に体を動かして、がんばって穴を掘った後で気づくのであるから、二度と同じミスはしないだろう。
誰が一番強いのか?を決めがたる
トムによればロビン・フッドはあまりにも強くて、片腕をしばってでも、イギリス中のどんな人間でもやっつけてしまう。さらに、あまりに弓の腕が立つので、1マイル半離れたところにある銀貨さえも射抜いてしまうのだ。
こういった話は私達日本人もいまだにやってることである。やれ、歴史上の人物の誰が一番強いだの誰が一番賢かったかだのを決めたがるではないか。実際の力とは、個人単体の能力だけでなく、環境、もっと言えばコネクションや利権のネットワークによって発揮されることに気づくのは大人になってからのことである。
人間の多様な精神を認めあうコミュニティの存在が、アメリカのデモクラシーの基本としてあった
人間とは、みせびらかしたがるものなのだ。名誉と賞賛を求めるものなのだ。自分の気持ちを率直に伝える代わりに間接的にちょろちょろとアピールするものなのだ。ナルシストで、自分の悲劇を想像して気持ちよくなり「すっかり満足する」ものなのだ。
そんな人間達が集まって一緒に住んでいる。ここで、各種のセレモニーの役割と意義について考えてみよう。みんなが集まって、それぞれ演説や詩の朗読、完璧な司会ぶりで自分をアピールする。それを受けた他のみんなが、拍手と歓声で応えてあげる。
こうして、一人一人の人間が心も精神も満足していくのである。見せびらかしたい気持ちが昇華され、美しいセレモニーの中で溶け込んでいく。トムのような子供たちの場合なら、自分の冒険話をみんなの前で自慢することで自尊心が満たされる。あるいは、自分のいい加減な推測話を披露するにしても、それは自分なりに世の中や社会を「こうだろう」ということでとらえた知的な成果の披露であり、ゆえに受け入れられるとうれしくなり、昇華されるのである。
互いに見せびらかしたがり、互いに賞賛しあう。そのための集まりが、学校やセレモニーの場にいつもあり、みんなでいつもワイワイやっている。こういった暮らしぶりが小説に描かれることができたのは、アメリカのデモクラシーの平等や自由といった理念が、ただ単なる形だけでなくて、コミュニティの中に生々しく根づいていたことの証なのではないか?
デモクラシーの可能性は、こういったところにあるのではないだろうか?だからこそ、この「トム・ソーヤーの冒険」がアメリカから生まれ、子供の自由な心と精神の面白さが引き出され、注目されるようになったのではないだろうか?
2008-09-10 14:37
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